いわゆるクイック矯正から抜歯治療を行った症例
初診時の診断:「上突咬合 上突歯列 叢生歯列弓 下後退顎」
今回は、短期間で歯並びが治ると謳われているクイック矯正により歯を削って被せもので歯並びを治したものの満足できずに、通常の矯正治療によりやり直しの治療を行ったSさんの症例について解説します。
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■初診時
現症および主訴
上顎前歯の唇側傾斜による突出および叢生を、矯正治療では時間がかかってしまうために歯を削って被せもので治すいわゆる「クイック矯正」を約5年前に受けたものの、噛み合わせは改善されず今後を不安に思い来院されました。初診時29歳。
顔貌所見
正貌における明らかな非対称性は認められませんでした。側貌においてオトガイ部の後退感、口唇閉鎖時の口腔周囲の強い緊張感、口唇の突出感を認めました。
口腔内所見
生まれつき唇側傾斜し突出していた上顎左右中切歯を削って被せものにしたため、歯頸部付近の突出感は残り左右の歯冠長(歯の長さ)は非対称でした。また、左右中切歯の歯冠が連結されていて叢生も改善されていないので衛生状態は低下し細菌が付着し歯肉は炎症を起こしている状態でした。下顎前歯部にも叢生を認め、臼歯の前後的な関係は僅かなII級関係(上顎歯列に対して下顎歯列が後方に位置する関係)となっていました。
X線写真所見
側面頭部X線規格写真(セファロ)により、上顎骨と下顎骨の前後的な位置関係は下顎骨が後下方に位置しオトガイ部の後退感が顕著な状態でした。上下顎骨の歯の並ぶ前後的な奥行きは小さく、上下顎前歯は唇側に傾斜する事で口唇突出感の原因となっていました。パノラマX線写真では、上顎右側1、2番、左側1番、下顎左右5番、右側7番が失活歯でした。上顎左右1番にはクイック矯正を行うために、歯を削って金属の杭(鋳造コア)が歯軸とは異なる方向に歯根の1/2近くまで埋め込まれていました。親知らずの埋伏や歯周病による明らかな歯槽骨の吸収は認められませんでした。
パノラマX線写真
デンタルX線写真
唾液検査・歯周組織検査
唾液検査では、むし歯の原因菌であるミュータンス菌が多く、歯の磨き残しも多く、むし歯のリスクが高い傾向を認めました。歯周病は部分的な出血以外大きなリスクを認めない状況でした。
特記事項
特記事項はありませんでした。
■動的治療方針
本症例は本来であれば上下顎左右4番(第1小臼歯)を抜歯して治療を行う事が理想的な症例でした。しかしすでにクイック矯正により上顎左右1番が削られて補綴物が装着されてしまった事、失活歯の存在により矯正治療後の歯の安定性を考えて抜歯部位の変更が必要と判断し下記の2方針を提案しました。
方針1:上顎左右4番、下顎左右5番の抜歯(上顎前歯部の審美性を考慮して上顎右側2番の失活歯を残す方針)
方針2:上顎左右2番、下顎左右5番の抜歯(上顎右側2番も失活歯なので抜歯とする方針)
両方針ともに、治療開始前に上顎左右1番の補綴物を除去し、本来の歯軸の向きに変えた仮歯を装着し仮歯に矯正装置(ブラケット)を装着して歯を動かし、治療中に仮歯の形態を修正しながら歯並びを整える方針としました。
2方針を提案した結果、審美性を優先し方針1を選択されました。
上顎左右1番の仮歯は動的治療後に審美性の高いセラミックの補綴物に変更する事としました。
上顎左右1番補綴物撤去時(動的治療開始時)
初期治療のPMTCや歯石除去により口腔衛生状態を改善してから上顎左右1番の補綴物を撤去しました。上顎右側1番は特に歯軸に角度をつけて金属の杭がたてられている事がわかります。
■ 動的治療開始時
上顎左右1番に仮歯を装着し、動的治療を開始しました。
動的治療期間中の仮歯の調整
上顎左右1番の仮歯を臨床的歯冠長や歯冠幅径(歯の大きさ)を合わせながら歯頸部の高さを揃えるように作り替えながら矯正治療を進めました。
■ 動的治療終了時
動的治療期間および保定期間
動的治療期間は予想の30ヵ月を超え約31.5ヵ月かかってしまいました。この間の調整回数は35回、平均的な来院間隔は0.9ヵ月でした。無断キャンセルなどによる中断などはありませんでしたが、成人の矯正であったため歯の移動に時間がかかったり仮歯の調整と歯軸の調整に予想より時間がかかってしまいました。保定期間は24ヵ月を予定し現在は保定中です。
顔貌所見
動的治療後の評価では、上下顎前歯の後退により側貌における口唇突出感や口唇閉鎖時の緊張感は改善し、口元の良好なバランスを得ることができました。 また、アンカースクリューにより上顎の大臼歯が圧下されたことで下顎が前上方に回転して下顔面高が減少しオトガイも明瞭になってきました。
口腔内所見
動的治療終了時は仮歯の状態で、左右対称な歯並びを作り噛み合わせを安定させました。
X線写真所見
動的治療後の評価では、パノラマX線写真所見において、全顎的な歯根吸収や歯槽骨吸収などを認めませんでしたが、デンタルX線写真では失活歯である上顎右側1番2番、左側1番の歯根が吸収してしまいました。セファロX線写真の重ね合わせにより上下顎前歯の後退により口唇が後退して突出感と緊張感が改善した事がわかりました。また、アンカースクリューによる上顎骨大臼歯の圧下により下顎骨は反時計回りの回転により前上方に移動して 下顔面高が減少しオトガイが明瞭になりました。
パノラマX線写真
デンタルX線写真
動的治療開始から保定終了までのセファロの重ねあわせ
▲ 動的治療開始時から終了時にかけて
上顎大臼歯が圧下され下顎骨が前上方に回転している
■ う蝕(むし歯)と歯周病のトータルリスク比較
う蝕のトータルリスク比較
う蝕のリスク合計は初診(動的治療開始時)唾液検査「15」→保定開始時「11」と低い状態で安定しました。これは、歯の磨き残しであるPCRやフッ素の使用状況の改善によりリスクが減少した事、接触する歯の本数が増加し噛み合わせが安定した事、口唇を閉じやすくなった事により咀嚼機能が向上し唾液の分泌量が増加したためと考えられました。
歯周病のリスク比較
歯周病のリスク合計は初診(動的治療開始時)「7」→保定開始時「6」と減少し安定しました。歯周病のリスクは矯正治療後に歯肉からのリスクが増えてしまいましたがこれは仮歯の影響によるものと思われました。
PCR、BOP、4mm以上の歯周ポケットの比較(%)
- PCR(むし歯と歯周病の原因菌の付着を示す歯の磨き残し)
- BOP(歯周病の原因菌による炎症を示す歯肉からの出血)
- 4mm以上の歯周ポケット
(歯周ポケットが4mm以上になると歯周病の原因菌による歯槽骨の破壊)
5分間刺激唾液分泌量の比較
5分間の刺激唾液量
保定開始後に上顎左右1番のクラウン再製
動的治療開始前 VS 保定開始後
■ 考察
Sさんは当院に来院される5年前にクイック矯正により歯並びを直しました。クイック矯正とは、歯並びの悪い歯を削って歯の角度を変えて被せ物を装着する治療法です。このような方法は、削って被せるだけなので矯正歯科治療に比べて数日で歯並びを直すことはできます。しかし、歯の角度を変えるために歯をかなり削って直さなければならないこと、角度を変えた事で歯に過度な負担をかけてしまうので被せもの(クラウン)と歯の連結している部分が不潔になって歯周病や虫歯の原因となってしまうこと、噛むたびにつなぎ目に大きな負担がかかり歯が割れてしまうことがあります。クイック矯正による綺麗な歯並びは短い期間で作れるものの、その寿命も5~10年と短いものです。
一方で矯正歯科治療では歯を削らずに動かしていくので歯並びが綺麗になるまでには数年かかってしまうのですが、歯並びだけでなく噛み合わせも安定させる事、口元のバランスも綺麗にする事、噛み合わせを良くする事で咀嚼能率が上がり唾液の分泌量を増やす事も可能です。そして綺麗になった歯並びは、歯も磨きやすくむし歯や歯周病の予防もしやすくなり、噛む力の負担もすべての歯に分散され歯が割れることも防止できます。そして矯正歯科治療により綺麗になった歯や歯並びはメインテナンスさえしっかりしていれば生涯にわたり安定させる事も可能です。
私たちは例え患者さんが矯正治療をする時間がないからとクイック矯正を希望されても、そのような治療は決して行いません。クイック矯正をするという事は歯の寿命を短くして歯科医療が提供しなければならない本当の患者さんの利益には繋がらないと考えるからです。もし時間がないのであれば、歯並びを良くする事は諦めるよう勧め、時間を作れるように生活や仕事のパターンを変えていただくことを納得してもらうまでお話しするようにしています。
私たちは歯を守るための歯科医院です。患者さんの健康を害するような歯科医療は行いません。Sさんの削ってしまった歯は二度と戻りませんが、残った歯をメインテナンスで生涯にわたり守っていきます。
永久歯の矯正治療(Ⅱ期)の目安
- 治療内容
- オーダーメイドのワイヤー矯正装置で治療を実施します。(スタンダードエッジワイズ法)
- 治療に用る主な装置
- マルチブラケット装置、症状により歯科矯正用アンカースクリューを用いる場合もあります。
- 費用(自費診療)
- 約1,280,400円~1,472,900円(税込)
※検査料、月1回の管理料等を含む総額 - 通院回数/治療期間
- 毎月1回/24か月~30か月+保定
- 副作用・リスク
- 矯正装置を初めて装着後は、歯を動かす力によって痛みや違和感が出たり、噛み合わせが不安定になることで顎の痛みを感じる場合があります。
歯を動かす際に歯の根が吸収して短くなる、歯ぐきが下がる場合があります。
治療中は歯みがきが難しい部分があるため、お口の中の清掃性が悪くなってむし歯・歯周病のリスクが高くなる場合があります。
歯を動かし終わった後に保定装置(リテーナー)の使用が不十分であった場合、矯正歯科治療前と同じ状態に戻ってしまうことがあります。 ・
長期に安定した歯並び・噛み合わせを創り出すために、やむを得ず健康な歯を抜く場合があります。